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摂津国八十八箇所巡拝20日目
2006年2月3日(晴れのち曇り)
今日は池田市近辺の5ヶ寺を巡りました、今日は車での巡拝です、163号線を西に走り30分弱で170号線に当りさらに右折して北上淀川を渡り吹田方面に向け府道2号線(中央環状線)を目指します、ここから吹田を過ぎ西へ豊中インター先まで進みます、インター先を右折して北上し阪急石橋駅を過ぎ少し走ると第58番一乗院に着きました、木津町から約1時間半程の工程です。その後歩いて近くにある第57番釈迦院、車で少し移動して第66番高法寺、ここから20分程移動して高台の上にある第68番満願寺、そして最後に稲川近くの中国自動車道近くの第59番常福寺にお参りして本日の巡拝を終えました。 本日の歩きは5561歩でした。
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一乗院
第57番釈迦院と同じ若王寺の次号を冠している。同じ若王寺一山の一院として聖武天皇の勅願により、僧行基の開創したした古刹である。弘仁5年(814)には宗祖弘法大師が留錫し、本尊聖観音菩薩、雨宝童子、春日竜神の三体を刻み、奉祀したと伝えられている。天正元年(1573)には織田信長の兵火に係り堂宇は焼失してしまったが、寛永15年(1638)秀栄が檀家の協力を得て再興した。更に200年後の天保5年(1834)に快龍が復興し、以後歴代住職により本堂・庫裡が営繕修理され今日に引き継がれている。
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今日は節分でまだお参りは少なかったですが福豆を頂きました

私の後ろ足元に基壇が見えると思いますが、先の阪神大震災で倒れた灯篭のもの。
広い境内に文殊様も祀られています

境内にある石田光成軍旗塚があります
釈迦院
その昔神功皇后が新羅出兵の折、戦勝帰国に際して国王よりの献上物に釈尊の仏舎利、袈裟、鉄鉢の三宝物があった。当時わが国には仏法が伝来していなかったので、皇后はこの宝物の処置に困って猪名の里(今の池田)のこの地に埋め、後年仏法流布の日を待たれた。奈良時代に至り、僧行基が夢の中で観音菩薩のお告げにより、その地を発掘して三宝物を得た。事の重大さに驚き早速朝廷に報告し聖武天皇の勅願によって一大伽藍が建立され、若王寺の寺号を賜った。以来この地を釈尊の鉄鉢にちなんで尊鉢呼ぶようになった。この地名は最近まで残っていたが、地名変更で今はバス停の名前としてその名前をとどめるのみと成った。三宝物のうち仏舎利と袈裟は戦国時代に灰燼に帰してしまったが、鉄鉢は今でも当寺に大切に安置されている。
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厄除けの尊鉢厄神として有名でおまいりも沢山いました、14時から節分祭と案内がある

山道から山門を望む 山門は変わったつくり

真新しい再建された本堂(若王寺の山号が有る) 本堂から厄神方向を望む

厄神堂(厄神明王) 護摩堂(不動明王)

修行大師像 きれいに整備された境内と本坊に生けられた生け花
高法寺
当寺は天平年間、僧行基の開基と伝えられている。もとは郭公の名所で知られる待兼山の頂上に有って、永禄年中(1558〜70)までは池田の城主筑後守の祈願所であった。戦国時代の兵火にかかって堂塔は全焼し、時の住職が本尊と「高法寺」の掲額のみを背負い、当寺に逃れ、小堂を建てて安置したという。本尊十一面観音菩薩は、本堂奥のお厨子に安置されている。秘仏だが、時に応じてご開帳され、参拝者は前もって連絡すれば直接お姿を拝ませて頂ける。檜の一本造り像高80センチ、顔は藤原時代特有の円満相である。弘仁風、藤原時代の地方作風のある貴重な存在とされており、池田市の重文とされている。今回連絡せず拝ませて頂けず残念でした。
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山門から金毘羅社、豊川稲荷のお堂が見える

本堂には正面に「待兼山」その奥に「高法寺」の掲額が見えます 金毘羅社のお堂

豊川稲荷堂 境内風景
満願寺
開基の勝道上人は、弘法大師の「日光碑文」によると、日光の補陀洛山の開基で、聖武天皇の勅願によって諸国に満願寺を建立した。その徳によって満願上人と呼ばれた。円融天皇の天禄(970)の頃清和天皇の御孫六孫王経其の長男多田満中は、源氏の姓を賜り、摂津の守に任ぜられた。満中は多田荘に城を構え、当寺を源氏一門の祈願所とされていた。正中2年(1325)後醍醐天皇の論旨により勅願時として保護を受けて栄え、時運が盛んな頃は45の院坊が有ったと伝えられる。その後兵火による焼失など変遷を経て、明治初年残った唯一の子院「円覚院」を本坊として現在に至る。
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明治14年に建てられた山門(仁王門)明治初期の洋風を取り入れた全国的にも珍しい建物

仁王さんの前で二人! 山道から観た金堂風景

ご本尊千手観音菩薩をまつる観音堂 水掛不動と子安地蔵堂

阿弥陀如来をまつる金堂 鎌倉時代の重文の九重の石塔

金堂を右手に少し山に入ると坂田金時(金太郎)の墓があります 山手に有るひっそりとした境内
常福寺
当山は聖武天皇天平3年(731)行基菩薩がこの地に留錫、自らご本尊十一面千住観世音菩薩を刻んでまつられたのが開基と伝わる。二世海然大徳が深く真言密教の奥義を極め種々の法権を現じたので寺名大いに挙がり、古来より有名な当山の竜池弁財天もこの頃に勧進された、更に牛頭天皇(今日の早苗の森八坂神社の祭神)の光臨されたのも円融天皇の天正2年(979)5月と当山の縁起は、伝えている。こうして早くから神仏融合の霊山として栄えたが、一条天皇の長徳4年(998)これらの由緒に叡感あり、清光山の勅額を賜り仏閣僧房大いに整った。その後源頼義の奉請によって白川院の勅命あり、藤原景正が修復に当り(景正名の十三重石塔の礎石現存)その後修復の歴史を経て戦国の世、天正6年(1578)兵火により堂宇悉く焼亡の悲運に際会したが、池田城主池田光重が復興に尽力、慶長年間本堂始め諸堂を再建(光重自筆の寄進状現存)江戸時代以降数度の修補を経て今日に到っている。
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山門の前で 山門から本堂を望む

本堂前の修行大師像 藤原景正銘の十三重の塔の礎石

境内には梅の鉢や葉牡丹の鉢などが綺麗に手入れされていたその前で!
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