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摂津国八十八箇所巡拝12日目
2005年6月26日

札所番号 寺院名 ご本尊 所在地 巡拝方法
第32番 正圓寺 大聖歓喜天 大阪市阿倍野区松虫通 自家用車
第34番 西之坊 地蔵菩薩 大阪市住吉区上住吉 自家用車
第35番 荘厳浄土寺 大聖不動明王 大阪市住吉区帝塚山東 自家用車
第36番 薬師寺 薬師瑠璃光如来 大阪市住吉区苅田 自家用車
第37番 如願寺 聖観世音菩薩 大阪市平野区喜連 自家用車
第38番 長寶寺 十一面観世音菩薩 大阪市平野区平野本町 自家用車
第39番 全興寺 薬師瑠璃光如来 大阪市平野区平野本町 自家用車
第40番 法楽寺 不動明王 大阪市住吉区山坂 自家用車

正圓寺

 
正園寺という寺名より天下茶屋の聖天さんとして親しまれている、山門前には江戸時代後期に
建立された石造があり、中でも水掛不動明王は一願不動として参拝者が多くいる。
 
境内は静かなたたずまいでひっそりとしていた、子宝地蔵堂もあり毎月1日16日のご縁日には
多くの人のお参りでにぎわうそうです

西之坊

 
南海高野線住吉東駅近くにある和光山西之坊、境内には大小神祇をお祭りする方位社などが並び
かっては神仏両方をおまつりしていた寺であった、元は天野谷寺五ヶ坊の内の一坊で、住吉大社の
社僧寺であった。
 
当寺の草創については戦国時代天正年間(1573〜92)兵火にかかったさい由緒古記宝物すべて焼失し
詳しいことは不明となる、元和元年(1617)に中興・長尊僧正によって再考されたと伝わる。
平野の地は戦災に会わず古い町並みが残されていい風情をかもし出してている。


荘厳浄土寺

 
縁起によると住吉大社第39代神主の津守国基は、白河天皇の勅を承けて応徳元年(1084)本尊不動明王を
中心に八町四方の寺域を以って創建されました。その土木工事の折、土中より「七宝荘厳極楽浄土云々」と
書かれた金の三尺ノ宝鐸がみつかり、この名文に因んで「荘厳浄土寺」と名づけられた。
 
開創から13年後の嘉保3年(1096)3月に盛大に落慶した、その後幾度もの盛衰を経て天和元年(1681)
債権復興にかかり、現在の本道を落慶し今に至っており、大阪府の史跡に指定されている
 


どっしりとした本堂、石塔など古さを感じる立派なお寺でした。

薬師寺

地下鉄御堂筋線あびこ駅で下車、市バスに乗り換え二つ目の「苅田」下車北2辻目すぐ近くにある、弘法大使と
縁が深いお寺で、如来のお告げでこの地に嵯峨天皇に奉聞し如来を供奉し大伽藍を建立された。その後大師が
高野山を開かれた際この如来を本尊に招来することを念願したが「かの山は女人結界するゆえ我本懐にあらず
ゆえに我はこの地に止まり、恵人女人を化益す」と再び夢告され、当地に残られたと言い伝えがある。
 

 
幾度もの戦災、盛衰を経て寛永3年(1626)古跡の地に建立された一宇の坊舎が、現在の当寺である。
境内には大師像をはじめ文殊菩薩、延命地蔵を祭る地蔵堂もあるきれいに整えられたお寺である。
 

如願寺

 
このあたりの地名は「喜連」と書いて「きれ」と読む古事記伝にも出てくる古い地名である。如願寺も当初は
「喜連寺」として創建された。
 
大永年間(1521)以後、兵火震災にあって書道は焼失したが、現在の本堂は享保年間(1716)に再建
されたものである。風格を漂わせた堂々たる本堂で、いかにも古寺にふさわしい。
 
境内から本堂方向を見た風景、中央に太い木の幹が写っているが「相生の樟」と呼ばれて、寺の目印に
なっていたが、戦災により枯死してしまった、この木を背にまつられているのが、「北向き不動」である。

長寶寺

 
当寺開基の慈心大姉は、坂上田村麻呂の娘で俗名彫る子といい、もと桓武天皇の妃であった。
延暦25年(806)桓武天皇崩御によって、春子は弘法大使に帰依して剃髪し、父坂上田村麻呂が
大同年中(806〜10)に創建した長寶寺の開基となったのである。
縁起によると当寺の本尊十一面観音像は田村麻呂の守護佛で、春日作と伝わる。
後に後醍醐天皇が、吉野に皇居を移されるとき、当寺を仮の皇居とされ「王舎山」の山号を賜った。
 
現在の本堂と庫裡は、天保年間(1830〜44)第33代慈源大姉の代の再建という。
左の太子堂はもとは田村堂であった。明治維新の廃仏毀釈の際杭全神社内の太子堂の弘法大使像と
田村堂の坂上廣野麻呂作という田村麻呂像を入れ替えたのである。
 
                                    鎌倉時代の重要文化財銅鐘
 
本堂近景                               


全興寺

 
寺伝によると、この地がまだ広茫たる野であったころ、聖徳太子が薬師堂を建立された事により人が
住み始め、次第に平野の町が広がっていったといわれる。野の中に一堂だけがあったので、この地を
野堂と呼んだ、旧町名の平野野堂町の由来である。
 
現在の本堂は元和元年(1615)の大阪夏の陣で一部を焼失し、後万治3年(1660)に再建されたもので
大阪府下では古い木造建築物の一つに数えられている。
 
本堂脇の蓮池にはハスも咲き始めていました、一願不動尊もおまいりはひっきりなしでした。
 
北門からの山道両脇には西国三十三箇所の本尊石仏が祀られています。
 
平野は戦災にもあわず古い町並みが維持されています、「平野町ぐるみ博物館」の取り組みを町上げて
行っており全興寺も駄菓子屋さん博物館を開いていました、また境内では紙芝居の実演もあり、今日まで
摂津国八十八個所巡拝をした中で一番の賑わいでした。

法楽寺


法楽寺は平家の棟梁平清盛公の嫡子、小松内大臣平重盛公によって、治承2年(1178)に開創された。
「小松の大臣(おとど)」と呼ばれていた重盛公にちなんで「小松院」と号され山号の「紫金山」は当山に
おまつりしている紫金二顆の仏舎利を示している。
 

 

 
境内には四国八十八個所のご本尊が刻まれた石碑、大阪府天然記念物の樹齢800年の大楠を背にした
お不動さんもありここへのお参りも多く来られている。

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