摂津国八十八箇所巡拝11日目
2005年4月2日
今日は北摂方面の巡拝をする事にしました、時間的に都合の良い5ヶ寺を選びました1時間位で移動できる為車にしました、寺院間は7,8K程度有るので丁度移動には良い距離です。朝9時から夕方5時頃までかかりました。 |
札所番号 | 寺院名 | ご本尊 | 所在地 | 巡拝方法 |
第46番 | 蓮華寺 | 薬師瑠璃光如来 | 茨木市天王 | 自家用車 |
第47番 | 総持寺 | 千手観世音菩薩 | 茨木市総持寺 | 自家用車 |
第49番 | 霊山寺 | 一言不動尊 | 高槻市霊仙寺町 | 自家用車 |
第50番 | 大門寺 | 如意輪観世音菩薩 | 大阪市中央区中町 | 自家用車 |
第51番 | 真龍寺 | 不動明王 | 大阪市中央区高津 | 自家用車 |
寺院の直ぐ横を阪急電車が通っています、電車の音以外は奥まっている為静かな環境です
創建は天平元年と言われますが、応仁の乱で堂宇、古文書が焼失し歴史的事実は残っていない
本尊は薬師瑠璃光如来で有り本堂には医王閣の看板が有る
境内に有る桜は咲きかけており来週くらいが見ごろのタイミング
総持寺
総持寺は西国三十三箇所の霊場でもあり、団体の巡礼が到着してきました、当寺は太宰大弐と言う役人であった中納言高房の意志により、その子である中納言政朝が本尊の亀に乗った千手観音像を彫像、堂塔建立に着手したが、果たさないまま寛平二年(890)に死去した。そこで中納言政朝の子らが祖父、父の石を次ぎ本堂、五重の塔、宝蔵、回廊、大門などを次々に完成、寛平四年(892)2月4日、政朝三回忌に落慶法要を営んだ、本尊の霊像・千手観音には奇特が多かった為に、一条、後一条、白河、鳥羽の四帝の帰依も厚く、時運も大いに栄えたと言う。 |
本堂に向って右手に有る太子堂 境内の桜もつぼみが膨らみかけここでも来週が見頃となりそう
どっしりとした山門をくぐると広々とした境内に続きます
当寺は四十九代光仁天皇の皇子、開成皇子によって宝亀9年(779)開かれた。本尊は一言不動と
呼ばれ「一言祈れば、願意満たざるなし」と言われ、多くの信仰を集めてきた。
近く摂津峡が有る山間の古寺で有り、本堂階段や周辺が真新しく改修中であった、多くの建物はなく
閑散として落ち着いた境内であった、本堂は慶長年間(1596〜1615)に境内左手の薬師堂は
天明年間(1781〜89)に建てられたものである。
天正年間(1573〜92)にはキリシタン大名高山右近の兵火に会い、境内一円焼失したが当寺の
住職が本尊及び霊佛を命がけで守り抜き江戸初期に再建された。その後苦難の歴史をたどるが
法灯は絶えることなく守られ、今日に到っている。客殿前の庭に彼岸桜が咲いていた。
当寺は創建当寺は青龍寺と称した。奈良時代の終わりごろ桓武天皇の兄君である開成皇子が、当山で
多聞天の化身である老人にあわれたのを機に、香木をもって如意輪観世音菩薩を彫刻し安置したのが
始まりと言う。
現在本堂にまつられている本尊如意輪観音及び四天王は平安末期の作と見られ、国の重文に指定。
境内に咲く桜とさんしゅうの木は毎年同じ時期に咲くとの事でした、境内は綺麗に整備され気持ちが良く
落ち着いて居れる場所でした。
天平20年(748)3月、聖武天皇の勅願所として造営された、行基菩薩の草創による古寺である。
現在の本堂は弘法大師御誕生1200年を記念して、昭和47年5月に新築された
境内の桜も膨らんできて来週あたりが見頃になりそうであった、また珍しく境内には昭和48年D51が
廃止された時に寄進されたD51-SLが展示されている。