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摂津国八十八箇所巡拝19日目
2006年1月20日(晴れ)

今日は昨年巡拝時に連続していない為に、行けていない大阪市街の寺院を巡拝しました。淀川区加島に有る「富光寺ーふっこうじ」西区土佐堀に有る「高野寺」大正区に有る「地蔵院」港区築港に有る「釈迦院」が目的で巡拝することにしました。コース作りは家内が得意で3ヶ寺をメインにしてコースが出来上がりました。今日は最近歩くことを続けていますので、公共交通機関プラス徒歩での巡拝です。

札所番号 寺院名 ご本尊 所在地 巡拝方法
第65番 月峯山 大覚寺 千手観世音菩薩 兵庫県尼崎市寺町 徒歩
第64番 補陀洛山 浄光寺 聖観世音菩薩 兵庫県尼崎市常光寺 徒歩
第 7番 長慶山 富光寺 阿弥陀如来 大阪市淀川区加島 徒歩
第27番

開運山 高野寺

厄除弘法大使 大阪市西区土佐堀 徒歩
第33番 築港高野山 釈迦院 弘法大使 大阪市中央区難波 徒歩
第31番 弘法山 地蔵院 地蔵菩薩 大阪市大正区三軒家東 徒歩

   大覚寺

阪神電車尼崎駅から南へ3筋ほど下り西に向かって100m程の所にあります。このあたりは寺町と言うだけありお寺が集中しています。しかも大きなお寺ばかりでびっくりしました。丁度南へ下って西へ曲る角にお仏壇の「浜屋」さんがあり、その店の壁にお寺の案内図が掲載されています。その案内に従い進みますと、間違いなく到着できます。大覚寺縁起によると当寺は聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて長洲の浦(今の東本町)に建立させた寺と伝わる。また南都東大寺の円照上人の弟子琳海上人が尼崎で道場を開き広めた寺とも有るこのあたり寺町は元和三年(1617)新城構築にともない長洲の浦から移転してきた大覚寺を中心に栄た門前町である。経済・政治・文化といった全般にわたる中心地ともなった。当寺は、寺町に移転してからは、尼崎藩の祈祷所として藩主・藩領などの安穏豊楽を祈願した。明治10年以降、二度にわたって火災にあう悲運にみまわれたが、昭和13年の現在の桃山様式鉄筋コンクリートの本堂が再建され、現在にいたっている。

 
                                この案内板はお寺が沢山有るので助かります
 
山門と鉄筋コンクリート造りでどっしりとした本堂
 
本堂右手前に隣接して能舞台が建設されています、節分に能舞台を使うために新築したとの事
境内には弁天様や上加茂神社、下加茂神社などがまつられています

   浄光寺

大覚寺から阪神電車尼崎駅まで戻り、ここから約1時間ほど歩きJR尼崎駅を目指して進んで行くとJR尼崎駅から10分ほど南東方向にあります。その昔釈の恵満という僧が、観音の功徳により海中から光を放つ金像を感得し、喜んで持ち帰った。そして小さなお社を作りおまつりしていたが、僧恵満熨斗後は数十年間そのままになっていた。その後天長6年(829)の秋、諸国巡錫の折に立ち寄られた弘法大師は、本尊が立派なのにこれではもったいないと考えられ、立派なお寺を建立して本尊をおまつりし、補陀洛山浄光寺と名づけた。これが当寺の草創と言う。

 
                                 なかなか立派な門構えでした
 
急な階段を上りますが、お参りは本堂に入れて頂きお経を唱えることが出来ました
 
修行弘法大師像や七福神がまつられています

   富光寺

常光寺からJR線をくぐって神埼川にかかる神埼橋を目指して進みます。神埼橋をわたると北東方面15分ほどで到着します。当寺は孝徳天皇より五箇荘を賜り、かっては一万五千坪の寺領をほこり、七堂伽藍のそびえる大寺であったという。本尊の阿弥陀如来は、一丈六尺の立像。その昔法道仙人が播州清水寺や一乗寺に滞在していた頃のこと、雲に乗って京の都へ飛翔する途中、仏舎利の光を見つけて、この地に降りて刻んだのが、このご本尊だと伝えられている。本堂は昭和六十年に再建されている。

 
山門から望む境内は広々として奇麗に整えられた立派なお寺でした
 
昔の八十八個所の石碑現在の7番ではなく33番になっていました
 
本堂右手には楠正成ゆかりの熱切地蔵がまつっていました

  高野寺

富光寺を出て南へ10分ほど歩きJR東西線加島から、新福島まで移動してここから南へ20分ほど下り高野寺に到着します。大阪の都心にあるお寺でビルの谷間に位置していました。縁起によると、明治4年の廃藩置県にさいし、高野山金剛峰寺は、時の長州藩毛利親公から、江戸堀にあった長州蔵屋敷を寄進された。そこで金剛峰寺は早速一寺を建立して古伝の弘法大師尊像を本尊としておまつりしたのが当寺の始まりと伝わる。800年の寺暦をもつ古刹であるが。古くは3千坪程あった寺域が今ではこの様に小さくなってしまった。

 
ビルの谷間に位置するお寺、少しかわいそうに思いました
 
境内も無く本堂への階段脇に昔の道標が埋め込まれていました
 
わずかなスペースを活かしお不動さんがまつられており本堂両脇には仁王像がまつられています

  釈迦院

高野寺の筋向いのバス停から大阪港、弁天町行きなどのバスに乗り移動します。30分ほどで弁天町に着き、地下鉄に乗り換え大阪港へ移動して南へ直ぐのところに釈迦院はあります。延暦23年(804)5月12日、弘法大師は桓武天皇の勅命によって摂津国・難波(現在の大阪港)から唐に向けて出港した。途中台風にあったが、大師が一心に祈願されると、にわかに進路が開き不動尊が影現されて航行できた。こうして神の加護・仏の冥助を受けて8月10日、ようやく大師は唐の福州赤岸鎮に到着された。唐で学ばれ帰港された大師は、嵯峨天皇に神仏の冥護により大任を全う出来た事を奏上した大師は、勅許を得て摂津国難波に祭壇を設けて無事帰国の報告法要と大阪港内外の航行安全、大阪港の守護と海上安穏を祈願され、以降もことあるごとにこの地で海上安全祈願をされたと伝わる。その後この大師ゆかりの地に、鎮護国家、済世利人、大阪港の守護と航行安全、さらに海運会の隆盛を祈願し、弘法大師を本尊として建立されたのが当寺である。

 
大阪港近くにあり築港高野山と言われる釈迦院、境内地も広い
 
平成7年阪神淡路大地震で倒壊寸前になり撤去、平成9年10月5日震災以前そのままに再建
 
境内には不動堂、行者堂などがある浪曲供養が8月に行われるとの事で供養塔が建立されていた

  地蔵院

釈迦院から大阪港駅まで戻り地下鉄で弁天町駅まで移動、JR弁天町駅から次の大正駅で下車南へ200m程で地蔵院に到着する。赤レンガの塀が目印になっている。当寺は、元禄元年(1688)僧快円の階層にかかり、旧生玉十坊の一ヶ寺で、かっては生玉魂神社の別当をつとめてその寺領の大なることを誇った真言宗高野派法案寺南坊の末院である。当寺は、創建当初は東成郡住吉村字大領(現在の大阪市住吉区)にあった。しかし、高野鉄道(現在の南海高野線)の起動内に位置したため寺地を明け渡すことになり、明治34年4月27日、現在地へ移転してきたのである。昭和20年の空襲で堂宇は全焼、昭和21年に仮本堂を建て布教活動を再開。その後昭和30年9月、壇信徒の協力を持って新たな本堂が落成し、現在にいたっている。

 
赤レンガの塀に囲まれている、写真後ろは山門
 
写真右手塀の中(右の写真の右側は)お墓になっている

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