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摂津国八十八箇所巡拝21日目
2006年3月4日

札所番号 寺院名 ご本尊 所在地 巡拝方法
第73番 平林寺 釈迦如来 兵庫県宝塚市社町4-7 自家用車
第74番 金龍寺 得自性清浄法性如来 兵庫県宝塚市鹿塩1-4-44 自家用車
第75番 神呪寺 如意輪融通観世音菩薩 兵庫県西宮市甲山町25-1 自家用車
第76番 東光寺 薬師如来 兵庫県西宮市門戸西町2-26 自家用車
第77番 法心寺 11面観世音菩薩 兵庫県西宮市高木西町3-19 自家用車
第78番 大日寺 大日如来 兵庫県西宮市高木東町1-21 自家用車
第79番 圓満寺 薬師瑠璃光如来 兵庫県西宮市社家町1-36 自家用車

平林寺

当寺は用明天皇の御代(586)に、その命によって聖徳太子が摂津国7大寺の一つとして創建されたと伝えられる。摂津国7大寺は中山寺、小林寺、塩尾寺、円国寺、金龍寺などの寺々で、瀬戸内海の入江に臨む景勝の地に聖徳太子が建立されたと古書に見える。天正6年(1578)伊丹城主荒木村重は織田信長との戦のとき、多くの寺に火を放った。当時もその時に焼失し灰燼と帰した。寛永年間(1624〜44)になって、当時本坊のほか、塔頭寺院でである成就院、宝寿院、西光院、成福院、自性院(のち明治初年に神戸市内へ移転した)などが相次いで再興され、その頃は今の墓所などを加えると、35000平方mもの寺域を誇った、今も成就院、宝寿院、西光院、成福院の塔頭・四院が参道の両脇に並び往時の面影を忍ばせている。尚平林寺のご朱印はこの4寺似て頂く事になっている。

 
参道脇にある塔頭四院、ご朱印もここで頂く  階段途中に弘法大師像がある
 
本堂(釈迦如来)、観音堂(11面観世音菩薩ー藤原後期の作で宝塚市の重文)
 
薬師堂のお薬師様は足腰の痛みを直してくださるとのご利益で知られる、薬師堂前には
県内に二基のみの鎌倉時代の貴重な遺品石造路盤がある。

金龍寺

この寺も第73番平林寺と同じく摂津国7大寺の一つとして、聖徳太子の手によって建立された由緒ある寺と古書に見えている。応永10年(1403)の豊臣秀吉の堺政策による強制分散実施の際、堺から移築してきたことが、現存の天贓物や広大な寺領、そして両墓制から推察されている。伝記によると、天正10年(1582)荒木村重の乱によって、堂宇伽藍をことごとく焼失したが、その後享和2年(1802)に泉州堺の碩学・宝洲尊者が中興の祖となって再建復興し、現在にいたっている。

 
山門とその横に桜の花がちらほらと咲いていました
 
本堂はかやぶき屋根のとたんで覆った古めかしい建物です、境内には古めかしい石造がある
 
境内にある石柱、ボタンの時期には奇麗な花が見れるようで境内には沢山のボタンが芽を付けていた

神呪寺

寺伝によると、聖武天皇の治世(724〜49)に、役小角が草創したと伝えるが、平安時代前期に多く建立された典型的な山岳寺院の一つといえる。「元亨釈書」の「如意尼伝」によると、天長5年(828)に、淳和天皇の妃・真井御前が霊夢を感じて当地に隠遁し仏道を志して、修行を積んだ。3年の後、弘法大師について如意輪の法を修めた。そして弘法大師が妃を写して如意輪観音像を刻み本尊としたのが、当時の始まりという。天長8年(831)本堂が落慶し、真井御前は弘法大師から如意尼の法名を授かり、以来神呪寺というようになる。承和2年(835)淳和天皇の臨幸以降は勅願寺となった。その後衰退するが、源頼朝が当時を尊崇し、梶原景時をして諸堂を再建させ、時運は栄えた。天正年間(1573〜92)に織田信長の兵火により消失する。元禄9年(1696)徳川綱吉の母・桂昌院の帰依により諸堂が再建され、現在に至っている。

 
山門を入ると長い石段を登り本道にいたる、本堂後ろには甲山が見える
 
諸堂のご本尊は重要文化財に指定されている。            本堂前にて            
 
本堂のご本尊如意輪融通観世音菩薩は日本三如意輪像、秘仏になっている。   右本堂内   
 
大師堂(甲山大師といわれ信仰を集めている)             不動堂             
 
甲山を背景に多宝塔がある                  山門脇にある弁天堂

東光寺

東光寺に行くには門戸厄神を尋ねたほうがわかり易い、当寺は、嵯峨天皇の勅願所として弘法大師の開其と伝わるが、兵火等の為に開其以降の寺史は不明である。徳川時代前期の慶安年間(1648〜52)に宥盛法師により再建復興され現在に至っている。当寺は本尊の薬師如来像よりも、むしろ厄神明王の方が有名になっている。この厄神明王は天長6年(829)嵯峨天皇が41歳のとき、弘法大師のご指導により自ら厄除け祈願を行った際、愛染明王と不動明王のご尊体が融合一体と化して、虚空の獅子座から諸々の災厄を打ち払い魔障をうち平らげる霊威を夢現の裡に感得され、天皇はこの霊感を弘法大師にお示しになり諸厄退散の祈願をするように命じた。そこで大使は自らのみをとり、三体の和合一体両頭の明王像を刻まれたのである。天皇はこの三体をいたく叡感され、三年間祈願の後一体を高野山の天野明神、一体を山城国石清水八幡宮、残る一体を摂津国門戸の東光寺に歓請された。天正6年(1578)当寺は、荒木村重の乱の時織田信長に日を放たれて、一宇残らず灰燼に帰した。ところが焼灰のなかに弘法大師お手彫の両頭大明神のみが、厳然と立っておられたと伝わる。以降この霊威は人々の深い信仰の対象として、参拝者が絶えることがない。

 
門は二つあるが案内では正門よりはいる、正門には「男厄坂」42段とその先の「女厄坂」33段を上がる
 
正門には東光寺、門戸厄神両方の看板がかかる         正門からは厄神明王になる      
 
正門右手にある瑠璃光堂にご本尊薬師如来が祀られている        正面にある厄神堂    
 
左手奥にある大師堂(厄除け大師)             厄神堂左手にある愛染堂 

法心寺

今から340年の昔甲山神呪寺の塔頭の一つであった常住院が荒木村重の兵火にかかった際、そのご本尊をお迎えして清誉が開いた草庵が当寺の草創と伝わる。そののち正徳5年(1715)第7世玩真和尚が改築したというが、そのときには本堂は桁行7間、梁行4間の草葺屋根であった、その後明治12年に立て替えられた木造瓦葺で第二次世界大戦の戦火も逃れたが、阪神大震災で倒壊し新築再建されていた。

 
山門には摂津国88箇所第77番の看板  山門前の古い石柱には第81番と見える昔は81番だった?
 
新築なった本堂                      本堂右手の行者堂

大日寺

第77番法心寺から歩いて数分のところ、住宅街の中にある先の阪神大震災で倒壊し新築再建されていたが、山門など現在も工事が進んでいた、当寺の寺暦は詳細が不明であり、開基もつまびらかではないが、慶安年間(1648〜52)の住持以来の言録が残されている。この言録によると慶安元年より、隆尊が堂塔伽藍を建立し、中興開其として当寺を再興したと伝える。享和2年(1802)火災の為に堂宇はことごとく灰燼に帰した。火災から15年後の文化13年(1816)第16代住職・実顕の手によって再建復興されたと伝えられる。その後明治36年にいたって第19台住職・義繁が、草葺の本堂を瓦葺の本堂に建て替えた。第二次世界大戦の戦火を免れたが、先の阪神大震災で倒壊し新築再建された。

 
工事の続く山門付近                        新築なった本堂

円満寺

十日戎で全国的に有名な西宮神社の隣にあり阪神高速道路沿いでもあり、判りやすい所にある。当寺は武庫山鷲林寺をここに移したもので、もともとは甲山の西、西宮市鷲林寺にあった。武庫山鷲林寺は源平の合戦や荒木村重の乱、織田信長の焼き討ちなどの兵火にかかって、その堂宇は炎上しことごとく灰燼に帰した。そのときたまたま南勝坊の信慶に霊夢のお告げがあり、西宮市社家町の現在の地に移ったのである。このため今里鷲林寺とも呼ばれている。その後もいく度かの盛衰にみまわれ、昭和20年8月には第二次世界大戦の戦塵によって再度堂宇は炎上灰燼に帰したのである。その後昭和23年、41年、43年にわたり再建がなされ現在に至っている。

 
円満寺山門                          本堂
 
          成田さん山門                  円満寺左手にある西宮成田山      

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