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摂津国八十八箇所巡拝23日目
2006年8月13日

札所番号 寺院名 ご本尊 所在地 巡拝方法
第80番 摩耶山天上寺 11面観世音菩薩 神戸市灘区摩耶山町2-12 自家用車
第81番 聖徳院 弘法大師 神戸市中央区宮本通6-7-15 自家用車
第82番 大龍寺
(中風除再度大師)
聖如意輪観世音菩薩 神戸市中央区再度山1-3 自家用車
第83番 真福寺 阿弥陀如来 神戸市兵庫区下沢通1-2-2 自家用車
第84番 金光寺(兵庫やくし) 薬師瑠璃光如来 神戸市兵庫区西仲町2-12 自家用車
第85番 常福寺
(西代の観音山)
延命地蔵菩薩 神戸市長田区大谷町3-11-1 自家用車
第86番 妙法寺
(須磨の毘沙門さん)
毘沙門天王 神戸市須磨区妙法寺字毘沙門山1286 自家用車
第87番 勝福寺 聖観世音菩薩 神戸市須磨区大手町9-1-1 自家用車
第88番 須磨寺 聖観世音菩薩 神戸市須磨区須磨寺町4-6-8 自家用車

摩耶山天上寺

当寺は大化2年(646)インドの高僧、法道仙人が建立された由緒有る山岳寺院である。ご本尊はお釈迦様が自ら感得されたと言われる一寸八分の十一面観音で法道仙人が日本に伝来され、大阪湾一円および当寺の四周に開けた八州の守護仏とされた。この十一面観音は、お釈迦さま42歳のときに作られたところから、古来厄除け開運・難病封じ(近頃は癌封じ)の観音様として信仰されている。水の守り仏でも有り、当寺の沖を航行する船は、ことごとく帆を下げて航海の安全を祈願する習慣になっており「帆下げ観音」の別名でも信仰される。この秘仏は三十三年に一度のご開扉で、最近は昭和61年にご開扉された。ここへの移動は案内では車では表六甲・裏六甲・西六甲ドライブウエーを経由して行くか摩耶ケーブル・摩耶ロープウエーを経由して歩く方法がありましたが、ケーブルコースで行こうと前日に電話をしたところ、ケーブルが故障して修理待ちで復旧が何時になるか目処が立たない(ケーブルが古いものなので修理部品が何時入るか判らないとの事)と言われドライブウエーを行くコースを取りました。86番妙法寺から82番大龍寺を経由して本日巡拝の最終摂津国88ヵ所の最終結願寺院になりました。

  
                          山門と石段(この石段もしんどいです)
  
本堂前でもっちゃん2                 同じくもっちゃん     
  
本堂近景                   摩耶婦人堂
  
境内からの眺め写真では表現できませんがすばらしい眺めです
 
 延命地蔵菩薩                    摩耶のおめでた蛙 

聖徳院

当寺は明治2年ごろ高野山大乗院の別院として、神戸市神戸区(現在の中央区)加納町4丁目2番地に真言宗の教えを広める目的で創建されたのが始まりという。これに先立つこと約18年の明治3年、それまで氾濫を繰り返していた生田川が。洪水防止の為にそれより当方の新生田川に付け替えられた。これに伴い、明治6年に加納宗七の手によって、布引から小野浜に到るまでの旧生田川の河川敷が当時としては広大すぎる十間幅(18m)の南北の道路となり、これに東西に交わる5本の道路、そして4万余坪に及ぶ市街地も完成した。この道が、後に生田区と葺合区を区画することとなり、この西側の地を加納宗七にちなんで加納町とよぶ。またこの道は、現在はフラワーロードと呼ばれ、三宮のメインストリートになっている。この工事ののち、三宮は神戸東部の中心として発展しつつあり、人口も増加の一途をたどっていたので、この地に布教を考えて建てられたのが当寺なのである。しかし昭和20年6月5日の神戸大空襲の際に、堂宇全てを焼失してしまった。このとき当時の古記録等も同時に焼失してしまい、当寺の詳しい縁起などは不明となってしまった。その後昭和24年になって、現在の住職の手によって、創建の地より少し東北に移り、現在の地に再建復興された。本尊の弘法大使像は幸い焼失をまぬかれ、今はお厨子の中に安置されている。

 
                            山門前で もっちゃん2
 
    山門前で もっちゃん                      本堂近景         
 
       本堂近景                 本堂 お参りは中に上げて頂けます
 
水子、子育地蔵                   修行大師と稚児大師

大龍寺

86番妙法寺をお参りし市街地を抜け西六甲ドライブウエーを経由し森林植物園西口から再度山に向かい南下、大龍寺山門前から参道を少しあがると駐車場が有る、その横に仁王門がありそこから急な階段が続く、途中で階段が2つに別れ、左が本堂、右が納経所へと続く。本堂側は急階段のため納経所へさきに回るほうが楽である。先に納経をお願いしお参りを済ませると良い。当寺は神護景雲2年(768)称徳天皇の勅を受けた和気清麿公が摂津国に堂宇建立の霊地を求めて当山中に来た際、かねてより清麿公暗殺の為つけねらっていた僧道鏡の熨斗客に襲われた。そのとき、一匹の大蛇が忽然と現れ、刺客は驚き逃げ帰ってしまった。刺客から逃れた清麿公が辺りを見回すと、大蛇のいた辺りに聖如意輪観音菩薩が立っておられた。そこで公はここを聖地として一宇を建立し、大龍至現の故を持って大龍寺としたという。

 
                                山門
 
山門脇の水子地蔵                       急な石段
 
本堂                           毘沙門堂
 
境内風景

真福寺

「西摂大観」「西宮市史」によると、当寺は元は、兵庫県武庫郡今津村字今津道(現在の西宮市今津町)に有り、摂津国今津郷の別当寺院として栄えた。ところが明治初期の廃仏稀釈の為に廃寺寸前の状態になってしまった。これを深く憂えた先々代の伝灯大阿闍梨月典伊達隆辯和尚は十善の御教を熱心に伝道布教され、当寺の再興を図られた。兵庫県に積徳会を組織されたのも、この和尚である。明治24年12月には現在の場所に移転してきた。そうして伊達隆辯和尚は、仮本堂の建築を終えられた後、病気の為に入寂された。その後、和尚の弟子で三田の光明寺の住職であった、伝灯大阿闍梨月乗伊達隆諦和尚が師の衣鉢をを継いで寺門の興隆に力を注がれ、当寺の基礎を築かれたので有る。昭和19年、第2次世界大戦の際の空襲で、本堂を初めとする諸堂が炎上し、全てが灰燼に帰した。戦後になって今の住職が再建復興に尽力し、現在にいたっている。

 
震災で倒壊し再建なった本堂
 
本堂近景 お参りは中に上げて頂きました  阿弥陀如来像
 
境内には観音像が祀られています
 
境内のホテイアオイに花が咲いていました(初めてみました)

金光寺

治承4年(1180)宰相・平清盛公が都を京都から兵庫の地・福原に移した際、その工事の手始めとして運河を作ることを命じた。ある夜童子が清盛の枕元に現れて、「兵庫の海中に霊仏が有るので、探し出すように」との夢告をした。そこで清盛は、早速兵庫大輪田の海に網を下したところ、果たして海中から金色の光もまばゆい黄金薬師像が出現した。清盛はその霊験と霊徳にいたく感心され、「これぞ当地の守護仏ならん。永く地を定め、一宇を興して安置し祈願せん」といわれて当地に大伽藍を建立したのが、当寺の草創である。そして海中から現れた黄金薬師像を本尊として安置したところ、国土を浄め、万人あまねく救うその霊徳によって多くの信仰を集めるところとなった。以来、今も兵庫の「やくし」として広く親しまれている。ここはご住職不在のときは納経をあらかじめ記入したものを本堂入り口横に置いて頂いている、今回は留守の方が居られ教えて頂いたが、丁度最後の一枚を頂けた、うまく行かない場合は納経を頂けない事が有るので、事前に訪問を告げておく方が無難である、摂津国88ヵ所巡拝中に出会いホームページへも書込み頂いているお友達は、残念ながら頂けなかったと報告頂いていました。私は八十八箇所全てその日にご朱印を頂け幸いでした。

 
 摂津国八十八箇所、福原西国三十三箇所の霊場
 
震災後立て替えられた本堂と庫裏
 
本堂を背にしてもっちゃん   もっちゃん2    

常福寺

天平の昔、行基菩薩は荒地であった当地を開拓して田畑を作り、その灌漑用水として池を掘った。池は蓮を植えて浄土の八功徳水になぞらえて、「蓮の池」と名づけられた。かってこの池は、現在の蓮池小学校の辺りにあったという。埋め立てられて今は無いが、地名にその名を残している。昔の旧記寺宝などは、度重なる兵火によって焼失し、確たる由緒縁起を知ることは困難であるが、元は法相宗であったらしい。元禄3年(1690)の記録には、「真言宗常福寺」とあり、この頃には既に真言宗に変わっていた事がわかる。当寺、西代村一番の巨刹であったという。元禄年間(1688〜1704)には、当寺裏山の山林に、西国三十三所観音霊場になぞらえて、三十三体の石仏を安置した、それ以来、山は観音さんと呼ばれ、当寺も観音山と号するようになった。

 
山門 駐車場は4台入りますが駐車にはかなりテクニックがいります
 
山門と境内から望む本堂
 
本堂近景          南北朝後期作と言われる西代宝篋院塔
 
震災で倒壊して破損した石塔、灯篭

妙法寺

寺伝によれば、当寺は天平10年(738)行基菩薩により建立された寺で、人皇第45代聖武天皇の勅願所と伝わる。開基当初は七堂伽藍三十七坊を有したが、その後一時衰え、承和6年(839)に定範上人によって再興された。平清盛の福原遷都のさい、王城鎮護の地として新鞍馬山の勅願を受け、一千石の寺領を授かり寺運は大いに上がったが、観応2年(1351)高師直・師泰兄弟の兵火にかかり焼失した。元禄10年(1697)再建、昭和48年再々建された。このあたりは、当寺を中心に成立した村で、その大伽藍の跡地の大門、界地、堂ノ下なども、寺号の妙法寺とともに地名に名を残している。付近には大門・仁王門・中門跡なども見え、当時西方には、観音堂、裏山には奥の院(薬師堂)などがあり、十分時間をかけて参拝したい寺であると案内には有りましたが今回は十分に時間をかけられませんでした。

 

 
本道から山門方面を望む              本堂前にてもっちゃんず
 
本堂近景                        修行大師像
 
宝篋院塔                        新築なった護摩堂

勝福寺

第66代一条天皇の御宇永延2年(988)太政大臣藤原伊尹の三男、藤原英雄丸が修行中、勅命によって摂津国・神撫山麓の鬼ヶ平に下り、證楽上人と号して草庵を結んだ。そして、神撫山付近に出没する鬼神を法の力によって祈願退散させ、熊野三社権現を勧請し、この地を安泰ならしめたのが、当時の草創といわれる。この熊野三社権現が、現在当寺の真南にある證誠神社である。天王は鬼神退散を喜ばれ、勅使・平兼盛を遣わして弘法大使一刀三礼聖観音菩薩に多くの寺録を付けて下賜された。そこで證楽上人は堂宇を建立し、当寺は七堂伽藍、東西の谷に建てられた三十六坊などの偉観を呈することになった。治承3年(1179)に平清盛が兵庫築港の工を起こしたさい、深く当寺に帰依し、当寺も良く協力したため、黄金花瓶二、香炉、三具足(重要文化財)幡12旒などの寄進を受け、寺運は大いに上がった、これらは今も当寺の寺宝となっている。当寺本堂はごく最近水害で本堂が被災倒壊したとの事で、今年7月から再建復興の事業を行い平成20年秋に落慶法要が営まれると山門に掲示され、本日も工事が進められていた。

 
山門には本堂普請の看板が上がっていました
 
駐車場から境内方面を望む           本堂は普請が開始されていました
 
仮本堂と仮本堂近景

須磨寺

天長年間(824〜834)漁夫が和田岬の海中から聖観音を感得し、会下山(現在の兵庫区会下山町付近)に堂を建てて恵偈山北峰寺と称したのが、当寺の端初と言う、その後仁和2年(886)聞鏡上人が勅命によってこの北峰寺を上野の地(現在地)に移し、聖観音像を本尊として奉祀した事によって当寺は開創された。以来源頼政や豊臣秀頼による中興も行われたが、人災天災を受けて寺は興廃を繰り返し、かっては七堂十二坊が立ち並んだ伽藍も、幕末には本堂、太子堂、仁王門を残すのみとなった。明治中期以後、唐門、護摩堂、奥之院、書院、奥書院、三重塔等などを再建新築し昔日の姿に復しながら現在にいたっている。尚現在の本堂は、慶長7年(1602)豊臣秀頼によって再建されたもの。境内には「平家物語」の敦盛最後で有名な熊谷直美と平敦盛の一騎討にちなむ、平敦盛の首塚、首洗い池、腰掛松、源平の庭、弁慶の鐘などがあり、また敦盛遺愛の「青葉の笛」も寺宝として残っている。

 
                          参道の奥に駐車場がありますが有料です
 
       仁王門                     唐門(今日は沢山のお参りでした)
 
四国石鎚山から運んできた弘法岩             湧出した五鈷水 
 
  本堂前でもっちゃん、左側工事中は大師堂          護摩堂前でもっちゃん2       
 
境内風景                         敦盛の首塚

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